(2014/11/18)
先日、とある定時制高校の授業を参観する機会を得ました。
文部科学省の指定で、協同的な学習を位置づけた授業を構築しようという試みです。
フレームワークを論説文の読解に生かし、対比構造を抽出させようという授業でした。
単元の終末では、その対比構造をとらえた上で、筆者の主張を再構成させる作文を書かせるのがねらいです。十数名に満たない生徒たちは、それぞれに壮絶な背景を抱えているというお話を伺いました。
授業は順調に続き、相当高度な課題に見えた学習も、学力の高い生徒がリードしていくかたちで、いくつかのグループは作業を終え、発表までこぎ着けることができました。出で立ちは、まぁ、派手な生徒さんもいましたが、担任の先生の柔らかな声がけに応えて授業に参加していました。
「思っていたよりも普通の授業だなぁ。」
そう思いながら、この協同学習のありようをどのように言葉にするべきかをぼんやりと考えているうちに授業の時間が終わりました。
担任の先生の挨拶で、授業を終えた瞬間、私は自分の認識が甘かったことを実感しました。
刺さるのです。視線が。
先ほどまで穏やかに言葉を掛け合っていたように見え、そして参観している私たちのことなど気にもかけないような態度で学習に向かっていたようだった生徒さんたちが、授業が終わった瞬間に凍るような視線を周囲に走らせていたのです。
さきほど「壮絶な背景」と言いましたが、まさしく、普通の小学校で普通の教員をしている自分が出会うことはおそらくほとんど無いであろう過酷な生活を背景に持つ子どもの目。
その中での「協同的な学び」とは一体何か。授業とは何か。学校とは何か。
小学校で荒れている学級を見ることは、私にもあります。授業が終わると耐えきれないように廊下にぞろぞろと出て行く子どもたちの雰囲気。体育館やグラウンドでようやく開放された顔を見せる子どもたち。
それとはちょうど逆でした。
私が見た教室では、授業の間は、担任の先生が目を配り、気を配り、心を配っている間だけ、たとえそれが幻想であっても、教室が安心できる場所。仮構された場所としての教室。
その中では一斉授業をただ聞いているだけの方がどれほど楽だろう。協同学習という、人と関わるなんてしんどい授業をなぜ受けなければならないのだろう。
「社会に出る前の最後の場所。」事後研で、授業をされた担任の先生は何度もおっしゃっていました。きれい事では済まない、ぎりぎりの判断や葛藤を経て、それでも安易に教材を簡単になどせず、知的存在としての生徒さんと接する先生の姿に、何か大きな宿題をもらって帰ってきたのでありました。
あ、ちなみに授業者の先生は私の授業を見に来て下さるということになりました。
楽しみです。とても。
(藤原友和)
0 件のコメント:
コメントを投稿