2018年3月16日金曜日

見てない大人と聞かない子ども

通勤途中のこと。いつの間にか道路脇に空き地が出来ている。先週まで何か建物があったはず。思い出せない。毎日通っている道なのに。しばらく考えて、「昔からあった食堂がなくなったのだろう」と自分を納得させた。あの食堂には20年前に一度だけ入ったことがある。もう店を畳んでも不思議ではない。

それから2週間後のこと。不思議なことが起こった。あの食堂が道路脇にあるではないか。あの空き地の手前100mの場所だ。自分を納得させたあの日から2週間、自分は何を見てきたのだろう。

不思議なこともあるものだ。きっと店を土台ごと移動させていたのだな。

改めて自分を納得させた。

 

目に映ることと見ることは別である。教師の目には、子どもが映る。だからと言って教師が子どもを見ているとは限らない。

そう言えば新しい自動車が欲しくなったときは、自動車のチラシがやたらと家に届き、ガーデニングに凝ったときは、街路樹さえもやたらと目に飛び込んだものだ。

見ようとしないものは目に見えないのだ。もっと言うと「星の王子さま」でキツネが語ったように、本当に大切なものは目に見えないのだろう。

 大人が子どもを見ていないように、子どもは大人の話を聞いてはいない。「さっき言っただろう」と目くじらを立てるのは、空を見上げて「なぜ雨が降るんだ」と怒るようなものである。

 子どもにとって世界は新鮮だ。つまらない大人の話を聞いている時間はないのだ。そう自分に言い聞かせるようにしていたら、「さっき言っただろう」と子どもに怒らなくて済むようになった。もっとも最近は、自分がさっき言ったことも忘れているからかもしれないが。


 見てない大人と聞かない子どもの間でコミュニケーションが成り立つのは、奇跡的なことだ。奇跡を起こすには、大人が子どもの話を聞くことだ。そうすると子どもは大人の話に耳を傾け、大人には子どもの本当の姿が見えてくる。(千葉孝司)

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